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ひめゆりの塔で平和を祈る
沖縄には第二次世界大戦の悲しい記憶がたくさんあります。
特に地上戦が繰り広げられた場所では多くの方が亡くなられました。
「ひめゆり学徒隊」については、沖縄の方でなくても、教科書などで教わったと思います。
沖縄平和祈念公園から車やバスで5〜10分と近くにある「ひめゆり平和祈念資料館」へ行ってみました。
ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館へ
ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館のある敷地内へ。公園のように、多くの木々に囲まれています。
ここは沖縄本島の一番南側になります。
公園の中を進んでいくと色々な碑が見えてきます。
この公園内の地図です。
入り口から入り、ひめゆりの塔があり、その先にひめゆり平和祈念資料館になります。
ひめゆりの塔
ひめゆりの塔は子供の頃から名前は知っていたものの、実際に来てみたのは初めてです。
それも塔が立っているだけでなく、その手前に実際にその頃使われていた豪(洞窟のようなくぼみ部分)の奥に塔が立っていました。
ひめゆりの塔には犠牲になられた方々の名前が彫られています。
今でもお花が手向けられています。
ひめゆりの塔の横に、こちらの塔が建てられていますが、ここが医療機関で、そこで職員たちも犠牲になりました。その慰霊碑もあります。
ひめゆり平和祈念資料館
公園敷地奥にある、ひめゆり平和祈念資料館に行ってみました。
ひめゆり学徒隊などの資料だけでなく、生存者の方のコメント映像などもありました。
2021年4月にリニューアルされ、とてもきれいな場所で、さらに展示の仕方も非常に「今に適している」感じで、とても見やすいレイアウトとなっていました。
建物に入ったところで入館料 大人450円を支払い、中へと入っていきます。
ここではただ資料を見せるというよりは、体感的にわかりやすいような展示方法が取られていて、当時残されていたものや、当時を再現したような展示もありました。
ひめゆり学徒隊について
ひめゆり学徒隊とは、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒だった女学生たちが、怪我した兵士たちの看護や食糧のお世話などのためかり出された方々のことです。
下は13歳くらいの女学生たちが対象となり、最初は医療現場だったのが、その後アメリカ軍が沖縄に上陸してくると、医療現場と言っても豪の中にある棚のようなベッドに寝かされた兵士に対して、薬も治療に使う道具もなく、世話をしなくてはならず、弾が飛び交う豪の外へ出て米を炊き、人数分用意できない食事を作っていたとのこと。
最後は「解散命令」を出され、アメリカ軍が近くにいる中「自分で逃げろ」などと言われ、10代の子たちはさらに犠牲になってそうです。
中には生き残った方もいましたが、その方々も「自分だけがなぜ生き残ったのか。申し訳ない。」と思って生きてきたそうです。
亡くなった方のご家族に申し訳ないという気持ちから当時のことは語らなかったと言いますが、最近になって亡くなった方の親御さんたちも亡くなられてやっと語っていただけるようになったようです。
今回この平和祈念資料館にて、その語られている映像も見られますので、是非実際にみて感じていただきたいです。
これを見ても、やっぱり思うのは「何があっても戦争をしてはいけない」ということです。
コロナ禍での影響
コロナ禍で沖縄の観光客が減っています。
実はこちらの資料館に来られる方も、激減しています。当然入館料などの収入が減っていて、資料館等の維持が大変になっていると言います。
是非沖縄に行かれる際には、色々な意味でこちらのひめゆり平和祈念資料館を訪れてほしいと思います。
ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館
TEL 098-997-2100
開館時間:9:00〜17:25(入館は17:00)